【多摩川のロマン】江戸を支えた「筏流し」と「筏道」を知ってる?
こんにちは、大田区在住の「ソラマメ」です!
普段、何気なく眺めているお馴染みの「多摩川」。
「ゆったり流れていて、お散歩すると気持ちいいな〜」なんて思っている方も多いですよね。私もその一人でした。
実は、2025年度(令和7年度)に大田区調布地区で行われた地域学習イベントに参加した際、多摩川の「とんでもない歴史」を知って、ものすごく衝撃を受けたんです。
実はかつて、この多摩川を「数人の男たちが乗った巨大な木製の筏(いかだ)」が、上流からどんぶらこと流れていたんです……!
「えっ、あんなに浅くてそこまで大きくない多摩川を、人が乗った筏が!?」とびっくりしますよね。
今回は、多摩川をダイナミックに使って江戸の街を支えた「筏流し(いかだながし)」と、彼らが歩いた幻の道「筏道(いかだみち)」のロマンあふれるお話をお届けします!
当時の筏乗りたちの、驚くほど人間味あふれる「生々しいおもしろエピソード」もたっぷりご紹介しますね!
江戸の街を陰で支えた「多摩川の木材」と「深川・木場」の深い関係
「江戸の木材といえば、深川の『木場(きば)』に集まっていたんじゃないの?」
歴史に詳しい方なら、そう思うかもしれません。
まさにその通り!江戸中の木材は江戸最大級の木材集積地である木場に多くが集められていました。
実は、多摩川をどんぶらこと下ってきた木材たちの最終目的地も、大田区(六郷や羽田)に到着したあと、陸揚げ・整理された後、船で木場などへ運ばれました。
当時、江戸に届く木材には大きく分けて2つのルートがありました。
①「下り荷(くだりに)」
木曽(長野)や紀州(和歌山)などの遠方から、海を渡って船で運ばれてくる超高級木材。主にお城や大きな神社・仏閣を建てるために使われました。
②「地廻り荷(じまわりに)」
多摩川の「青梅材」や、荒川・入間川水系の「西川材(飯能)」など、江戸の近くの山から川を使って運ばれてくる木材。
海を渡る高級木材は、運ぶのに数ヶ月もかかり、値段も目が飛び出るほど高価でした。
一方で、多摩川の水流に乗せて運ぶ「青梅材」は、山を出発してから数日から10日ほどで届くこともあり江戸(木場)に届くという「超ハイスピード&低コスト」が最大の強みだったのです!
何度も大火事に見舞われ、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた江戸の街。
焼けてしまった庶民の長屋や、町をあっという間に復興させるための「普段使いの木材や足場用の丸太」として、安くてすぐに届く多摩川の木材は、なくてはならない大黒柱だったのです。
一見地味に見える多摩川の木材ですが、実は「江戸の日常と復興をリアルに支え続けた、功労者」だったんですね!
実は夏はお休み!?「秋から春」が筏流しのシーズンだった深い理由
「川を流れるなら、夏が水も多くて気持ちよさそう!」と思いませんか?
実は、多摩川の筏流しは「秋の9月後半から翌年の春にかけて」が主なシーズンで、なんと夏場はほとんど行われませんでした。
その裏には、当時の人々にとって死活問題だった「水」をめぐる、驚くべき理由がありました。
理由① 田んぼ(農業用水)との「水争い」を避けるため
春から夏(6月〜8月頃)にかけては、多摩川沿いの農家にとって田植えや稲作の大切な時期。川の水を田んぼに引くため、多摩川のあちこちに水をせき止める「堰(せき)」が作られました。
こうして田んぼに水をたくさん取られてしまうと、多摩川本流の水量が減って筏が川底をこすってしまいます。
さらに、川に設置された頑丈な「堰」のせいで、物理的に筏が通り抜けられなくなってしまったのです。
理由② 鮎(アユ)漁の邪魔をしないため
夏の多摩川はアユ漁の最盛期。
川の中にたくさんの漁師さんが入るため、巨大な筏が流れてくると大危険!
お互いの仕事を尊重するための、職人同士のルールだったのですね。
理由③ 大雨や増水による危険を避けるため
夏の急な大雨で川が氾濫するリスクを避け、水害から命を守るための知恵でもありました。
冷たい風が吹き抜け、川の水が冷える「秋から冬・春」にかけて、彼らは川に出ていたのですね。
その勢いのある冬の川に、数人の「筏乗り」と呼ばれる男たちが乗りました。
地元では『上乗りさん』と呼ばれることもあったと言われています。
長い棒一本で巧みに舵を操りながら、命がけで川を下ってくる筏乗りたちの姿は、当時の子どもたちの憧れの存在だったとも言われています。
大金を懐に抱えて山へ帰る!面白すぎる「帰り道」のエピソード
大田区で筏を納品し、大金を手に入れた上乗りさんたち。
彼らは大田区周辺の「筏宿(いかだやど)」と呼ばれるお宿に泊まって一晩おいしいお酒を飲み、翌朝、奥多摩の自宅がある山まで帰っていきました。
乗ってきた乗り物(筏)は商品として売ってしまいましたから、帰りはもちろん「自分の足」です!
この、筏乗りたちが家路を急いでテクテクと歩いた多摩川沿いの道のことを、いつからか「筏道(いかだみち)」と呼ぶようになりました。
実はこの帰り道にまつわる、当時の筏乗りたちの「リアルな暮らし」が面白すぎるんです!
エピソード① 約50kmを1日で駆け抜ける「ウルトラ健脚」がいた!
大田区から奥多摩までは、なんと約50km〜60kmもあります。
普通は途中の府中あたりで1泊して帰るのですが、中には「一刻も早く我が家に帰りたい!」と、未明の午前3時頃に大田区を出発し、その日の夜には奥多摩の自宅に到着していたという、信じられないほどの超人健脚な上乗りさんもいたそうです!
エピソード② 遊び用の「オシャレ着」を持参して寄り道!?
大金を持った男たちですから、ただ真っ直ぐ帰るだけではありません(笑)。
中には、帰り道に「ひと遊び」する気満々で、あらかじめ荷物の中にオシャレな「羽織(はおり)」を用意しておき、帰りに川崎の遊郭に繰り出して豪快に遊んでから帰る、なんて粋でお茶目な男たちもいたそうです。
エピソード③ 昭和になると「電車」で超特急帰宅(タイパ重視!)
明治から大正、そして昭和の初期へと時代が進み、多摩川沿いに鉄道(現在の青梅線や南武線)が開通すると、彼らはあっさりと「歩くのをやめて電車で帰る」ようになります。
「川崎駅から二俣尾駅(奥多摩)まで、電車賃は72銭だった」というリアルな生々しい記録も残っています。
電車でバビューンと早く帰ることで、すぐにまた上流から次の筏を流して稼げるという、まさにタイム・イズ・マネーなプロの職人魂ですね!
ちなみに、筏流し自体はなんと昭和7年(1932年)頃まで細々と続いていたそうですよ。
大田区や多摩川沿いには、この歴史を楽しく研究しているグループも!
「こんなに面白い歴史、もっと知りたい!」と思いますよね。
実は大田区や多摩川沿いには、この多摩川の筏流しや筏道の歴史をコツコツと研究し、フィールドワーク(実際に道を歩いてみるイベントなど)を行ったり、詳しい散策マップを作ってネットで発信してくれている素晴らしい市民グループや有志の方々が存在します。
私が話を聞いたのは大田区立郷土博物館友の会・水路の会でした。
川崎の中野島に今も残る「現存する唯一の筏道」や、府中市の「いききの道」にある「筏道」と深く刻まれた石柱など、現代でもその足跡を辿ることができます。
「ただの川」だと思っていた多摩川が、歴史を知ることで、まるでロマンあふれる博物館のように見えてくるから不思議です。
こうして地域の埋もれた歴史を次の世代に繋ぐために活動されている方々がいるのは、本当に誇らしいことですよね!
まとめ 多摩川を見る目が変わる!ロマンに思いを馳せてみて
半年前に初めて知って、あまりのロマンと上乗りさんたちのバイタリティに「大田区の多摩川、凄すぎる!」と大興奮してしまったお話をご紹介しました。
今度多摩川の土手を散歩するときは、ぜひ川面を見つめながら、
「かつてここを、大金を稼ぐ男たちが筏に乗って、かっこよく流れていったんだな……。帰りは電車やダッシュで帰ったのかな(笑)」
と、江戸や明治の時代に思いを馳せてみてくだい。
いつもの景色が、少し違って、とても愛おしく見えるはずです。
最新のお出かけ情報や地元の歴史スポットを見つけたら、またこのブログでシェアしますね!
